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NAVI LOFT クリエイション企画 ①

​ナビロフト×,5

『さかさま』

原作:佐々木透(リクウズルーム)
テキスト構成・演出:澄井 葵(,5 てんご)

出演:小熊ヒデジ(てんぷくプロ)、江上定子

劇評

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NAVI LOFTクリエイション企画①

ナビロフト×,5『さかさま』劇評

不自由と自由のあいだに

―,5 『さかさま』について―

林真也

 「俳優」という言葉から、職業や属性を示すニュアンスを取り除いた上で、その言葉の意味を考えるなら、それは「演技をしている人」である。そして、「そこに演技がある状態」を「演劇」と呼ぶことができるならば、俳優=演技=演劇は、このように等号で結ぶことができるだろう。「俳優」と「演劇」は、「演技」によって定義されているから、「演技」を定義することが、「俳優」「演劇」を語るうえでは欠かせない作業になる。

 ,5 の作品では、いつもテキストがあり、「演技」はテキストと演者の向き合いにおいてある。つまり、「演技」はテキストに規定される。これは「当たり前」のように思われるけれど、,5 の作品を見てみれば、それは「一般的」という意味での当たり前ではないことに気づく。

 

 『さかさま』の小熊ヒデジの演技を見てみよう。上演の冒頭、小熊は舞台の床に仰向けに横たわり、ごくゆっくりと、聴こえるか聴こえないかのぎりぎりの声量で、セリフを言う。これは、「何かよくわからないことをつぶやいている人」を演じているわけではない。時折聴こえる小熊のつぶやき、チラシや当日パンフレットを通じて事前に知ることのできる予備知識、また、男の頭を覗き込むように座っている江上定子のセリフから、小熊が『さかさま』の物語の主人公である「男」であると、観客たちは、ぼんやりと理解する。

 

 『さかさま』の物語は、「ある朝、さかさまになってしまった男」の物語である。台本を見ると、この冒頭のシーンは、「男」にとって世界がさかさまになってしまったことを観客に告げる、重要なシーンであることがわかる。しかし、そうした物語や設定の「理解」からすれば、不相応な余剰が(もしくは不足が)、小熊のパフォーマンスにはある。それくらい小熊の動きや声は、緩慢で、小さい。これは、おおむね,5 の作品に共通する特徴で、,5 作品における「演技」の、演者とテキストとの向き合いにおいてある、という極めてまっとうなあり方が、現象としては「一般的」でなくなってしまうのは、そうした、圧倒的な余白が存在しているためである。

 

 では、こうした「余白のある演技」が、その通りスカスカの、中身のないものであるかといえば、必ずしもそうではない。小熊の「演技」は、奇妙な仕方で充実している。

 

 たとえば、小説家の諏訪哲史は、上演後のアフタートークで、このシーンを振り返って「あれほど小熊さんの足の裏のしわをじっくり眺めたことは今日までなかった」と述べている。このシーンに立ち会った観客は、諏訪のように足の裏を眺めたり、へばりつくように床に置かれている肘から手首までのラインに注目したり、不思議に盛り上がったり折れ曲がったりしている左手の親指の形に視線を送ったりしていたことだろう。

 

 これは、消極的に言えば「他にしようがないから、小熊の身体をゆっくり眺める以外に仕方がない」ということでもあるし、より積極的に言うならば「観客の見るという行為を舞台上にあるものが邪魔していない」ということでもある。つまり、小熊のパフォーマンスは、余白によって、観客の「見る」という能動性を引き出している。そして観客の「見る」という能動性こそが、このシーンの充実をもたらしている。

 

 ということは、もしかすると、「小熊の「演技」が充実している」という物言いは、変更が必要かもしれない。「充実」しているのは、「演技」であるよりも「観客」の方かもしれないからだ。とはいえこうした問題は些末なことである。演技がどのようなものであれ、それが充実しているかどうかはいつだって観客が判断してきたからだ。したがって、「小熊の「演技」は充実している」という物言いを変更する必要は、特にないだろう。「演技」の定義が、一般的なそれとは異なっている、ということは言えるにしても。

 

 さて、上記のシーンでは、演者の声量は、観客にとって、聞こえるか聞こえないかのギリギリのところで保たれていて、セリフは明瞭に観客に聞き取られ、理解されねばならない、という考えは、放棄されているようだった。セリフ=テキストは「演技」の根拠ではあっても、それ以上のものであることを、積極的に求められていないようだった。しかし、冒頭寝転がったままだった小熊が、立ち上がって以降のシーンでは、セリフ=テキストは、むしろ実に明瞭に観客に届けられるようになる。これはどのようなことなのだろうか。

 

 ここで、『さかさま』のテキストについて説明しておこう。

 

 『さかさま』は、活動休止中の劇団「リクウズルーム」の劇作家・演出家である佐々木透の同名小説を、,5 の演出家である澄井葵が構成し直したものを上演台本として用いている。ここで言う構成とは、わかりやすく言えば小説テキストからの切り貼りであり、澄井が新たにテキストを書き下ろしたのは、上演の半ばに差し挟まれる、江上のソロシーンのみである。したがって、上演台本には「地の文」や「会話文」といった小説に一般的な形式、作者である佐々木の文体などはそのまま残されている。さらに、非常に重要な点として、『さかさま』は、原作小説のもつ「ある朝、さかさまになってしまった男が、勤務先での会議に出席するために四苦八苦してたどり着いた環状線の電車内で、同じくさかさまになった少女に出会う」という筋書き=物語を引き継いでいることが挙げられる。

 『さかさま』における物語の要素が重要なのは、それが,5のこれまでの作品と比較して、例外的な扱いを受けているからである。これまで私が触れることができた,5 作品(今回で7作品ほどになる)のうちで、『さかさま』ほど、物語について念入りに扱われた作品はなかった。澄井は、個人的な会話の中で、『さかさま』の制作にあたっては「名古屋の文脈を強く意識した」という旨の発言をしているが、おそらく、『さかさま』における物語に対する態度は、この発言と関連があると思われる。だが、このことについて、この文章で、正面から取り扱うつもりはない。本稿の目的の一つは、『さかさま』という作品が、物語に対してどのような態度をとっているかを明らかにすることだ。

 結論めいたことを述べておくなら、『さかさま』にとっての物語は、演技と有機的に結びつき、演技によって実現される何か(演技の目的)ではなく、むしろ、「演技」によって利用される何か(「演技」の手段)である。もっと言えば、『さかさま』とは、俳優=演技=演劇のありかを指し示そうとするために物語を利用している作品である。ゆえに、物語は明確に提示される必要がある。そして、それゆえに、小熊は明瞭にセリフを語らなければならないのである。具体的に見ていこう。

 

 小熊が明瞭にセリフ=テキストを語るといっても、その明瞭さは一筋縄のものではない。たとえば、小熊が語るのは次のようなセリフである。

 

着替えが仕舞い込んである扉の取っ手を見上げた。開けられないではなかった。開けられた。目差すはハンガーに掛けてある背広だった。ぶら下がるならぬ、ぶら上がる状態のものを手に取るというのはなんとも物凄い違和感だった。副業でも始めようかしらと思った。でもそんなに簡単では無かった。何からやればいいのか全く解らなかった。そんなことをつい最近考えたのを思い出した。

 「ある朝、さかさまになってしまった男」は勤務先の会議に出席するために、さかさまのまま四苦八苦して家を出て、四苦八苦して街を移動し、四苦八苦して電車に乗り、そこで江上演じる「少女」に出会うのだが、「少女」が登場するまでのシーンでは、小熊は上記のような「男」の一人語りをひたすらに語り続けている。そして問題なのは、語るだけではなくて、小熊は「男」として、セリフ=テキスト通りに行動する点である。これがなぜ問題なのだろうか。

 小熊は「男」についての語りを語っている。つまり、「男」について語っているわけだが、「男」について語ることができる、ということは、すなわち小熊は「男」を対象化している、ということである。しかし一方で、その語りの通りに動くということは、みずからがその「男」である、と指示していることになる。つまり、ここには、いったん対象化した「男」を、同時にふたたび演じ直すような奇妙な二重性がある。役と演者の関係は、いったんは切り離され、そしてほとんど同時に一致させられている。さらに、小熊の、明瞭ではあってもゆっくりとした語りが、この二重性を強調する。単純な話、ゆっくりとしたその発語のペースに合わせて、愚直にその通りに行動すれば、小熊の身体はとてつもなく冗長なパフォーマンスを余儀なくされるからだ。言い換えれば、小熊はここでも「余白のある演技」を課されていた、と言えるだろう。

 

 しかし、この余白は、少なくとも私が見た回では、あまりうまく発生していなかったように思われる。小熊のパフォーマンスそのものが、観客の能動性を誘う余白を生み出さなければならないはずだが、小熊は余白を埋めに行ってしまった感がある。そのために、観客は物語についてはよく理解することができる一方で、することがなくて退屈してしまう。したがってこの回のこのシーンは、上演としてはうまくいっていないのだが、だからといって、それで作品がうまくいっていないかといえば、そうとも言えない。うまくいっていないこのシーンは、うまくいっていないゆえに、うまくいっている冒頭のシーンのネガとしてとらえられる可能性がある。つまり、「演技」の不在を媒介に、「演技」のありかを指し示すものとして理解することができるのである。であるならば、俳優=演技=演劇のありかを指し示すという『さかさま』の目的は、十分達せられたことになるだろう。

 

 さて、ゆっくりとセリフ=テキストを語りながら、それに合わせてぎこちなく舞台を動き回る小熊のパフォーマンスは、『さかさま』の物語に、じつに正確に対応している。それは「ある朝、突然さかさまになってしまった男」の戸惑いの表現として、十分、理解可能なものだからである。こうした、物語とパフォーマンスの対応の正確性は『さかさま』では、かなり慎重かつ律義に守られている。いや、それを当たり前だと考えるのが、一般的な演劇観だと思われる(それを「一般的」だと考えるのはずいぶんとナイーブであることは重々承知であるが、『さかさま』が照準にしているのは、こうした意味での「一般的な演劇観」である)が、こうした当たり前のことが当たり前でない形で提示されるのが『さかさま』という作品なのである。

 

 小熊の語るセリフは(構成し直しているとはいえ、ほぼ)小説テキストそのままであり、それが語られることで「男」の物語はいったん対象化され、役と演者はいったん切り離される、ということはすでに述べた。ということは、物語に対してメタレベルに立つ演者にとって、テキスト通りに行動しなければならない必然性は、実はないはずである。にもかかわらず、小熊がテキストの通りに動いているのだとしたら、それはそうしたパフォーマンスがあえて選ばれている、ということにほかならない。言い換えれば、『さかさま』では、物語は演者によっていったんは対象化されながら、あえて演者を物語の内部にとどめ続ける選択がなされている、ということである。物語が念入りに扱われているとは、このような意味においてである。

 

 この、物語とパフォーマンスとの正確な対応は、江上演じる「少女」の登場以降も維持されることになる。『さかさま』は、原作のもつ物語要素を、あえて選択し続けるのである。

 

 すでに述べたように、「男」は会議に出席するために、四苦八苦して家を出て、環状線を走る電車に乗り、そこで江上演じる制服姿の「少女」に出会う。「少女」は、「男」と同じようにさかさまになった人間であり、さかさま歴30年のベテランである。「少女」は17歳でさかさま人間になり、その年齢の姿のまま30年間環状線の車内で空を見下ろしている。もちろん、さかさま人間である「少女」の時間が止まってしまっていることと、同じところをぐるぐると回り続けるだけで、どこにも行くことができない環状線とは、象徴的に対応している。環状線が同じところにとどまると同時に前進し続けているのと同じように、17歳のまま時が止まってしまった少女にも30年という歳月が流れている。「少女」は、試験を受けに登校する途中で、さかさま人間になってしまった。そして、その試験を受けられなかったことに、30年間、こだわり続けている。

 

 「少女」の、このこだわりは、「男」が会議への出席にこだわっていることと、対照的である。「男」のこだわりがこれからへのこだわりであるのとは逆に、「少女」のこだわりはあのときへのこだわりであるからだ。しかし、この対照性は、永続的なものではない。「男」のこだわりもまた、いつかあのときへのこだわりへと変質するだろうからだ。その意味で「少女」は「男」の未来である。こうした、物語レベルでの「男」と「少女」の対比と相同は、パフォーマンスレベルでも確認できる。相変わらずゆっくりとセリフを発語し、ぎこちなく動く小熊のパフォーマンスに対して、江上はすらすらと発語し、軽やかに動き回る。これを物語に即して理解すれば、さかさま歴30年の「少女」が、さかさま世界を軽やかに動き回れるのは当然であって、この世界に入りたての「男」はよちよち歩きの赤ん坊も同然である、ということになるだろう。つまり、「少女」は「男」の未来なのだ。

 

 このように、「少女」の登場によって、小熊のパフォーマンスと物語との対応の正確性は、より強調されることになるのである。しかし、思い出しておこう、『さかさま』にとって、物語とパフォーマンスの対応は、意図的な、選択的なものだったことを。次に上げる少女のセリフは、作り手が、そのことに自覚的であることを鮮やかに示している。

ある時、向こう側からあなたが歩いてきました。私とあなたはなんと、対峙できたんです。ああ、素敵だなって思いました。あなたは私よりも大人の姿をしていました。聞けば、あなたは今日からこの場所にこの状態でいると言います。なんだか私、お母さんになった気分だったんです。あ、違う、お父さんかもしれません。だって、あなたが、生まれたばかりの小鹿のように両手、両足をブルブルさせているように見えたから。そう。それに立ち会う、私はお父さん。出産の立ち会いはなんだか、紙一重ですよね。けど、あなたはまだ会議にいかなくてはならないと言いました。私は怖かったんです、だって生まれたばかりの赤ちゃんが、いきなり喋り出すから。でもこの環状線には何の栄養も存在しません。どんなに意識が向いていても、成長するという方向に進んでくれないこの中ではどうすることもできないんです。

 このセリフは、劇中の一人物の、たんなる思いの吐露として受け止めれば済む、というものではない。なぜなら、すでに述べた「「少女」は「男」の未来である」ということの、言わずもがなの正確な描写になっているからである。ここには、小熊のパフォーマンスと同様の構造が現れている。小熊のパフォーマンスは、「男」についての語り(=「男」の対象化)と、「男」としての動き(=「男」であるという指示)という二重性を帯びていた。それと同様に、すでに小熊と江上のパフォーマンスによって舞台から提示されている「「少女」は「男」の未来である」が、「少女」のセリフによって対象化される、という二重性がここにはあるのである。

 

 また、セリフの内容はそれ以外にも重要な要素を含んでいる。なるほど、環状線の車内に産み落とされた赤ん坊としての「男」、その出産に立ち会う父親としての「少女」という見立ては、「「少女」は「男」の未来である」に一致する。しかしそれだけではない。「男」が環状線の車内に産み落とされた赤ん坊なのだとすれば、「男」のこの車内までの悪戦苦闘の道のりは、母親の胎内から胎外へと続く産道を通り抜けるプロセスだったということにもなる。すると、「男」の車から車への移動は、胎から胎への移動でもあったことになり、内と外とは、まるでメビウスの輪のように結び合わされる。つまり、さかさま世界全体が、一種の閉域であることが示唆されるのである。したがって、環状線はさかさま世界全体としての象徴性を帯びることにもなる。

 

 つまり、この少女のセリフは、「「少女」は「男」の未来である」ということの正確な描写であるにとどまらず、『さかさま』の物語世界全体の解読格子をも提供するものなのである。

 ここに至って『さかさま』は徹底的に閉じた世界として提示される。物語の内容レベルにおいても、その物語と鏡のように向き合っている演者のパフォーマンスのレベルにおいても、である。だから、『さかさま』は観客から「解釈」の自由を奪っていると言えるだろう。セリフによる発語は、すぐに演者の動きによって回収されてしまい、演者がパフォーマンスによって何かを提示しても、それはセリフによって回収されてしまう。物語に、観客の付け入る隙を与えない、これが、『さかさま』の物語に対する態度である。『さかさま』は、観客が物語と向き合ってしまうこと拒否している。そこに「演劇」はない、とでも言うように。そして、ラストシーンにおける、物語の廃棄の身振りから、私たちはそのことを、より明瞭な形で目にすることになるだろう。

 

 ラストシーンの始まりは印象的である。それまで噛み合わない問答を続けていた二人が、同時に別々の長セリフを言い始めるという、それまでとは明らかに異質なシーンによって、ここからがラストシーンである、ということが明確に告げられる。セリフの内容も異質である。いきなり「結婚しましょう」などという言葉が耳に入り、観客は(少なくとも私は)「そんな唐突に?」と驚く。なぜか、「男と女が出会い、そして結婚に向かう」という物語のパターンが、何の説明もなく、いきなり挿入されている。そして、セリフによれば、どうやら二人は、お互いの区別がつかなくなりつつあるらしい。自他の融触というテーマは、例えば日本のサブカルチャーにおいても、ごくありふれたものだろう。そして、二人は、電車の扉から空に向かって飛び降り(これもセリフによる)、小熊と江上は舞台上をそこここと走り回りながら、反転した重力によって空へと落ちていく二人の意識(「会議」や「試験」への思いらしきもの)をランダムに叫び合う。つまり、今や、さかさま世界の閉域は打ち破られ、外部へと脱出しつつある二人とともに、閉じ込められていた思いが解放され、ほとばしっているというわけだ。これもまた、いかにもエンディングらしい趣向である。そして、「ひたすら、繰り返し」「続きはまたにしましょう」といった、上演の反復性への言及をにおわすような発言(演劇なのでメタ構造を導入しやすい。これも定型である)に続いて、

江上「見てください、月が、ほら。・・・・・・なんか太陽みたいに大きい」

小熊「本当だ・・・・・・。すぐ側にいるんだもんなァ。そりゃデカイ訳だよ」

と、近づきつつある月(空に向かって落ちているので)について述べ合い、上演そのものが終了することで、物語にも終止符が打たれる。

 

 一体このラストシーンは何だったのだろうか。ラストシーンの始まりが明確に告げられるとともに、唐突かつ矢継ぎ早に繰り出された数々の物語的定型たち(ボーイミーツガール、自他の融合、閉域からの脱出、演劇的メタ構造の導入……)。しかし、ラストシーンに至るまでの過程に、この結末を必然化できるようなプロセスはほとんど描かれていないのである。したがって、このラストシーンで数々の物語的定型が提示されるのは、それが定型だから、という以上の理由はないといってよい。もちろんこれらの定型は、定型ゆえの強い喚起力を備えている。多くの観客が「切なさ」のような、それこそ定型的な感情が、定型的に胸の奥に疼くのを感じたのではないだろうか。もちろん、そうした定型的な感情を得られたことをもって、よしとする道もアリである。しかし、『さかさま』はもう一つ別の選択肢を示していたのではなかったか。

 

 再三の確認になるが、『さかさま』がとっていた、物語に対するスタンスを、もう一度思い出そう。『さかさま』は、物語に対して実に戦略的にふるまっていた。物語は、対象化をほどこされながらも、慎重にラストシーンまで維持されてきた。『さかさま』のラストシーンは、そうして慎重に維持してきた物語が、陳腐な定型に向かって、大げさに投げ入れられているようなものだ。私は、そのバカバカしさに笑ってしまう。あんなに丁寧に扱われてきたものが、あんまり雑に扱われているからだ。これを私は、物語の廃棄、として理解する。廃棄された後に残るのは、物語を維持し、廃棄する身振りそのものである。私は、この身振りこそ、俳優=演技=演劇のありかとして、,5 が考えているものに他ならない、と考えている。そして、この身振りの方につくことこそ、『さかさま』が、物語とは別の、もう一つの選択肢として示しているものではないだろうか。

 

 あるいは、映画『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』で紹介された、床に引いた綱を参加者に渡らせる、綱渡りのワークショップを想起してもよい。綱を踏みしめるその第一歩が物語の始まりである。そして、綱を渡り切ったところがその終わりである。綱を渡りきること、それは確かになにがしかの達成ではあるかもしれず、その達成が実に感動的であるように観客に受け取らせることを、演出と呼ぶこともできるだろう。しかし、演者が綱を渡るさま、それ自体を注視させる演出、というものがあってもよい。その時、観客は、綱を渡るという行為の目的、いや、綱を渡っているという事実そのものをすら、忘れてしまっていても構わないのではないか。なぜなら、綱を渡るという条件に規定された「俳優」が、確固としてそこに存在しているのだから。もちろんそれが注視(という観客の行為)を引き出し得るものかどうかは、演者の資質や選択にも関わってくるものではあるだろう。ともあれ、観客はその時、小さな自由を感じるはずである。劇場という「見る」ことを強制された場所で行使しうる、それは実に小さな自由であるのだが。

 

 ところで、作品中、私が最良だと思うシーンがある。

 

 それは、小熊演じる「男」と、江上演じる「少女」が、環状線の車内で出会う、その直前におかれた、江上のソロシーンである。物語の、どこにも居場所がないような、ポカンと中空に浮いたようなその場所で、江上は岐阜の山の中に逃げ出したシマウマの話を始める。岐阜の山中に吹く風を感じ、横たわったりしながら、なんか違うな、とサバンナを想像するシマウマを江上は想像する。そう想像する、をしている江上がそこにいる。だから、私は、江上をじっと眺めながら、江上のする「想像する」の、確かとも不確かともつかない感触を感じている。そのように感じる自己をもまた、感じている。

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NAVI LOFT クリエイション企画①

​ナビロフト×,5

​『さかさま』

□原作:佐々木透(リクウズルーム)

□テキスト構成・演出:澄井葵( ,5 )

□演出:小熊ヒデジ(てんぷくプロ)、江上定子

 
■日程:2018年9月14日(金)〜16日(日)
​■会場:ナビロフト
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